8/2のしゅちょう
            文は田島薫

(遊び心、について)


人生は暇つぶし、とか、遊びをせんとや生まれける、とか、先達たちが、

言ってるのに、子どもたちは親たちに、遊んでばかりいないで勉強しなさ

い、って言われっぱなしだったり、大人になっても、あの人はふらふら遊

んでばかりいて不真面目でいけない、って非難されたりして、どうも、遊

びよりも、なにか勉強なり仕事なりに打ち込むことが人として理想的にい

いことのように人々の多くは思ってるようだ。

たしかに、世の中の人々の全員が遊んでるだけだと、生活に必要な物資も

足りなくなってだれもが生きて行くことが難しくなるだろうから、仕事や

最低限の勉強は必要、ってことには違いないだろう。

ただ、人生の大事な部分を前述の先達の言葉で考えると、遊びが本体であ

り、勉強や仕事はそれの手段、ってことになり、遊びを充実させるために

勉強や仕事があるのだ、ってことになる。

ところが、現代では、なんだか子どもたちはあんまり遊びをさせてもらえ

ないでいつも勉強させられてたり、大人たちはやっぱり遊びよりも朝から

晩まで仕事をやるのがいいことのように思われてる感が。

もっとも、勉強も仕事も自分が好きでやりたいもので、やめろ、って言わ

れてもやっちゃっうし、つまらない遊びなんかやってるよりも、ずっと楽

しいのだ、って言う人は、その勉強も仕事も多分遊びと同じもので、それ

ならそれを好きなだけどんどんやればいいわけで。

問題は、ほんとはそんな勉強も仕事もやりたくないんだけど、生きるため

に仕方なく辛抱してやってるだけだ、ってことになると、本末転倒、って

状況なんで、できるだけなんとかして人生を楽しくする方がいい。

って言うと、中には、人生は苦しくてもいいのだ、って言う人も出てきて、

人生は元々苦しいもんで、それを我慢して生き抜くことに意義があるのだ、

って言ったりして。そういうことを言ったり実行してる人は、その苦しい、

ってことに耐えてる自分に満足を感じるタイプで、いわゆるマゾヒスト、

かもしれないけど、それでいい、って人はそれなりに屈折した楽しみを感

じてるのだろうからほっておいてもいいけど。

大人の日常における哲学を考えてる山田ズーニーさんによると、人が岐路

や決断で悩んだ時には、他人の思惑は無視して自分の心が楽しく思える方

向を選ぶのが、自分の芯や力になって行く、って最近わかった、って。


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