3/1のしゅちょう
            文は田島薫

(無為の豊かさ、について)


人生は短い、光陰矢のごとし、って言っちゃ人間時間を無駄にしないように、

大事にそれを使った方がいい、ってだれでも思ってることなんだけど、じゃ、

時間を大事に使う、ってことはどういうことなんだ、って聞けば、人によっ

て様々な応えがありそうで、教育ママなら子どもに遊んでばかりいないで勉

強すること、って言うだろうし、サラリーマンなら、より仕事の効率を上げ

て上司に評価されるようにように努力すること、とか、読書は人の人格を育

てるのだから沢山本を読むこと、とか、なんでもなにか目標を持ってる人な

らば、それが成功するように準備や努力する、ってことになるんだろう。

で、一番時間を無駄にするのが、ただ心のままに遊ぶこととか、なにもしな

いでぼーっと過ごすこと、ってだれでも思うかもしれない。

人生をよく生きる、ってことを、たとえば、苦しみか楽しみか、のどっちか

で考えた時、苦しみがいい、って思う人はそんなにいないんじゃないか、っ

て思うんで、とりあえず、喜び、ってことが人生の価値だとすれば、ひたす

ら苦しい勉強や努力する、ってことの結果にその喜びがもたらされる、って

ことなんだろう。

ところが、現在の生活が将来のそんな喜びのための単なる準備のためでしか

ないとすれば、子どもから成人するまでの時間の例えば、楽しい遊びのよう

なものがなくていいのかどうか。

成人になったらなったで、その例えば、サラリーマンならその昇進のための

単なる準備の時間、ってことなら、いつになったら、手放しの喜びの時間が

来るのだ、ってことにもなるわけで。

なにかの目標のためにがんばる時間を充実感として喜びに感じられるならそ

れはそれですばらしいことなんだけど、ただ、苦しいだけなら、多分さっさ

とやめてちがうことした方がいいのだ。

だって、そんなことやってたとえ昇進したとして、それになんの価値がある

のかわからないうちに人生の終末が来るかもしれないのだから。

これは無為とは言い切れないんだけど、私は毎朝晩、ベランダで山桃の木や

空に向って深呼吸しながらスクワットしてるほんの10分足らずのそれがすご

く気持のいい時間で、なんだか、永遠、を感じるのだ。

わが家にいついたねこさんたちも、ずっとなにか目的に向って努力してるわ

けでもないのに、草の上に座って、木々の匂いやそよぐ風の音を感じてるの

を見てると、ねこさんの1日、1年は永遠のように長い充実したもんのよう

にも思えてくる。多分、禅宗の座禅なんかに通じる感覚なんじゃないか、っ

て私は思ってるのだ。


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