11/8のしゅちょう
            文は田島薫

(生き抜く人々、について)


気がつけば私も高齢者と言われる年になって、友人たちのほとんどが、なん

らかの病気や障害を持って生活してたり、何人かは病死したり、交通事故死

したのもいて、明日の我が身、って感じで生き死にはさほどかけ離れたもの

じゃない気分になって来てて、とりあえず今、生きられてることはありがた

いことなんだから、毎日を、さらに一瞬一瞬を大切に生きたいもんだ、って

感じてるとこなんだけど、そんな高齢者になる前の若い時期に、大変な病気

や障害に遭って闘病や絶望の果てに病死したり、中には自死したりする人も

いる一方、そういった逆境を乗り越えて楽しそうに生きてる人もいる。

人々にはそれぞれの事情、ってもんがあるんだから、傍から私が生き抜く方

がいいのだ、って言ったところで無意味に違いないし、生き抜こうとしても

どうにもならなかった人々もいるわけだし、短い人生はだめだ、って言って

たら、私の年より若く亡くなっても、名作を残した文豪やミュージシャンや

画家などとくらべて、私はどれほどのもんだ、って言われるだろうし、なに

も大それたものを残さないような、平凡なだれかの短い人生がだれかの心に

生きる勇気や希望や優しさや想いを残すこともある。

人生の価値はそれの長短では測れないもんだけど、才能などのあるなしにか

かわらず、長生きできるものなら長生きした方が、当人には結果、楽しいも

のなんじゃないのか、ってことを言うのは自由だろう。

そんなことはない、こんな世の中、生きてる価値はないのだからさっさとお

さらばするのが一番だ、ってそうした人々が生きてる時に言ったかもしれな

いとしたら、ずっと黙ったまま死んだんでなくて、もしそう言うことの意味

をだれかに共感してもらいたい、って感じたのなら、生きてる人々とのなん

らかのつながりを求めてた、ってことになるだろう。

生きて、色々な人々とつきあいながら、色々な感情を味わったり、行動した

りしてその手応えを感じたら生きる希望になるだろうし、いつも辛いそれば

かりを感じていたなら生きていたいとは思わないかもしれない。

今朝、ラジオを聞いてたら、20才の時に電車に轢かれて両足と片腕を切断し

た人がゲストで、事故後すぐに今までと同じように生きる形を決め、車椅子

じゃなく自分で歩く選択をしリハビリも普通より半分の期間で乗り越え、自

分で世界的義足メーカーを探し出し毎日1万歩の歩行練習と義足の調整をし、

10年後の今では仕事も友人とも以前と変わらないつきあいをしたり一人暮ら

しをし、YouToubeで片手でする料理を披露したりして暮してるそうだ。


戻る