10/25のしゅちょう
            文は田島薫

(沈黙と雄弁、について)


私はここでど〜でもいいようなことを気の向くままに書き散らしてる

んで、ばかなやつだな〜、って思われてるかもしれないな〜、って思

うんだけど、考えたり感じたことを吐き出すことによる私の精神安定

が第一の主題なんでそれは気にしないことにしている。

私自身の理想では、あまり凡庸で当たり前なことは表現しないで、こ

れはかなりクオリティが高くてひょっとするとじぶんが初めて表現す

るようなことだ、ってことだけ表現したら他人からの評価も上がるだ

ろうと思うんだけど、それは限りなく不可能に近いことになり、それ

を試みたら多分ピタリと頭と手が止まるだろうし。

それで、今回はじぶんのことを棚に上げて、他人の表現について言い

たいことを書き散らして精神安定してみたい。

他人を見て、い〜な〜、あんな風な人間になりたいもんだ、ってタイ

プはどうでもいいようなことには口数が少なく、口を出したり表現す

る時は、深い洞察力があるような人間なんだけど、けっきょく、それ

はじぶんよりも高い精神性を感じる時なわけで、それがそうでもない

ようなじぶんよりもばかばかしいものに感じる時は、多分それはじぶ

んと同じぐらいのタイプなんだろう。

だから、沈黙と雄弁とどっちがいいか、って二者択一的な問いは多分

無意味で、無駄口の雄弁より沈黙がいいだろうし、考えることをせず

に行動や振舞いがばかげてる人間の沈黙より、含蓄ある雄弁の方がい

いはずだろう。

とは言うものの、そのばかげてるか含蓄あるか、ってことも同様に二

者択一は無意味で、人それぞれの精神レベルでそれはどちらにも行き

来するもんで相対的なことだし、だれが聞いてもばかげてる表現も、

そこに笑いが生まれることがあり、含蓄ある表現もはある人にとって

はその認識の底なり穴を読まれて失笑されるかもしれないのだから、

けっきょくそれぞれの精神レベルで、なるべく他人に呆れられるよう

なのや退屈させるような無駄口はやめて、よく考えた決めゼリフを心

がける努力をするしかないのだろう。などと、またどうでもいいよ〜

な無駄口をたたいたのは私だ。


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