9/7のしゅちょう
            文は田島薫

(なかよしグループの危険性、について)


仲のよい友だち同士が集まって大小のグループのようになる、ってことは

子どもの時代も大人の時代でもあって、だれもがひとりぼっちの寂しさを

軽減できるわけだからそのこと自体が悪いわけでもないんだけど、そうい

う関係には、ある種の危険性がともなうことが多い、ってことを各自が自

覚しておく必要があるのだ。

例えば、共通の趣味で集まる同好会のようなものがあったとして、そこで

その趣味に関する交流だけしてる分には問題はないんだろうけど、ひとり

ひとりの人間の内面は多様なもので、関わる趣味以外のことについてはな

かなか分からない部分も多いはずなのに、度々会って他愛ない言葉のやり

とりしてるだけで、なんとなく親愛感のようなもんが出てきてそれを守ろ

うとするあまり、多少の考え方や感じ方の違いがあった時は、それを深追

いしないことで、いわば、日本人が得意な、和をもって尊っとし、ってこ

とになりがちなのだ。

私は本当の友だち、ってものがいるとしたら、お互いの考えの違いについ

て議論するとか、感じたことについて、お互いに感じる、快、不快の部分

についてもはっきり言いあえる関係が基本じゃないかと思うし、そういう

関係だと、なかなか複数のグループに発展しにくいところがあって、それ

ならそれでかまわないじゃないか、とも思うのだ。

一方、和をもって尊っとし、の方は、各々が気持ちいい部分だけを見るこ

とにしてるわけだから、大きくなって行くことも多そうで。

それが、世界の環境保護だの、貧困撲滅などの目的で集まったグループだ

ったら、みんななかよく協力しあうことにさほど問題はないだろうけど、

一般に、なかよしグループの目的の多くは、自分たちの楽しみや、共通の

利益や、ある種の優越感、といったテーマになりがちで。

そうだとしても、それ自体が悪い、ってことにはならないんだけど、そこ

にある種の悪(例えば、排他性や人種差別傾向の愛国心や戦争の肯定)の

ようなものが紛れ込んだ時に、これはまずいんじゃないか、って何人かが

感じても、口をつぐんでしまう。

ひとりひとりがそのちょっとした問題認識に目をつぶりさえすれば、仲間

にはたいてい親切だったり楽しかったり善人ばかりだったりで。

グループ内の認識に、グループ以外のだれかを不幸に陥れる可能性がある

ならそれに目をつぶることはできないはずなんだけど、なかよしグループ

は彼らの間だけの、和をもって尊っとし、になりがちなのだ。


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