4/27のしゅちょう
            文は田島薫

(楽観と悲観、について)


きのうテレビを見ていたら、このコロナ感染防止の緊急事態宣言などで、営業

活動がゼロになり、毎月2〜3000万の赤字を出してる、って言うバス会社の社

長が、過酷な状況や政府からの援助金の不足などを嘆いて捨て鉢になってもふ

つうだろう、って今、通勤を継続せざるおえない地元民のために、東京駅だっ

たかまで、3密を防ぐ工夫をした無料バスを毎朝自ら運転していた。

その後、留守録しておいたマルクス・ガブリエル教授のシリーズの5回めを観

たら、終わりごろ彼と同世代とおもわれる英語が堪能な日本人の若い学者と対

談してたんだけど、何カ国もの語学に堪能で、言語が国や文化同士を分断せざ

るおえない絶対的なものではなくて、かならずどんな国や民族同士でも倫理的

なものなどの究極の価値観は共通するものだ、って立場のガブリエルさんに対

し、その日本人学者は、じぶんは世界を悲観的に観てる、と言い、そういった

言動をするといい人ぶってる、って思われないか、ってどうも当人自身の感想

らしいことを言った。じぶんは世界の厳しい現実をよく知ってるのだ、そうい

った君のような甘いこと言っても無意味だ、ってそうはっきり言ったわけでは

ないんだけど、少し皮肉口調の雄弁がそう私には聞こえた。

ガブリエルさん、これはまずい、こんなこと言ってる学者こそ無意味どころか

百害ばかりと(そうはっきり言ったわけではないんだけど、紅潮した少し怒り

を含んだ表情から私にはそう聞こえた)世界をよくする努力とやっただけのそ

の効果は必ずあるはずだ、ってことをやさしく諭した。

学者同士の討論ではよく、特に未熟なタイプほど世界認識についてじぶんの方

がより深く理解してる、ってことを主張しあう光景が見られるんだけど、学者

の存在価値があるとすれば、世界はいかにしていいものに変革できるだろうか、

ってことを忘れてないことが全てなのだけど、その一番肝心なことを忘れて、

どうやら、いかにじぶんの脳が優秀であるかを人々にわからせたい、ってとこ

ろに目的が変わって行き勝ち、だってことのようだ。

現状認識で悲惨な部分だけに意識を留めてしまいいかにその悲惨の程度が大き

いかだけを伝えてたら、たとえば今のコロナ感染で20万の死者が出てて、それ

がもっと拡大するだろう、だけじゃしょうもないわけで、いかにすればそれを

止めることができるかを解きあかすことに意味があるわけだから。

悲観論しか持ち合わせない学者も、われわれ一般人も、悲惨な状況の中でじぶ

んにしかできないことを考えて実行してるバス会社の社長を見習いたい。


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