3/16のしゅちょう
            文は田島薫

(違和感ある人づきあいの面白さ、について)


友だちづきあいでは、気が合った者同士が集まって、そうじゃない連中とは距離

を置く、っていうのが一般的だし、私自身だって親しくつきあってる仲間は気が

合ってる、ってことは間違いないんだろうけど、気が合う、って言っても人格が

違う別々の人間なんで何から何まですべて合う、ってことはなかなか難しいこと

で、こういうところはやだな、って感じるものはお互いにいくつも持ち合わせて

るに違いないわけで、それでもつき合える、って言うのは主要な部分でやはり気

が合う、ってことなんだろう。

それでも、やはりやな部分ばっかりがエスカレートするように感じる相手とは疎

遠になって行くことも多いはずだけど、それでもつき合いが続いてる場合や、逆

に、すごく気が合ってる、って感じてたのに疎遠になってしまうこともある。

それはそれぞれの生活環境や位置的な条件などで、会いやすいかそうでないか、

共通の趣味のようなものがあって会うと楽しい、ってことがあれば続くことも。

それでも、やな部分を厳格に気にする者は気にしない者より、関係が薄くなりが

ちになるだろう。

私自身の場合で言うと、若い時にはよく大酒飲んで言いたいこと言ったり踊った

りしてた(酒乱か)せいか、反感を買って殴られたり嫌われたりしたことはよく

あって、自分はあまり他人から好感を持たれるタイプじゃない、って自覚を持っ

てるもんで、他人の欠点についても、あまり気にしない方だと思う。

気にしないどころか、欠点あるのは自分の方もだ、って感じるから、それでも私

とつき合ってくれる態度の人間はみんな仲間に感じるのだ。

謹厳実直で、批判をして私を嫌う相手よりも、その相手自身に欠点があってもつ

き合ってくれる者の方がその欠点さえ私はおもしろく感じるのだ。

そうは言っても、他人に嫌われることが好きなわけじゃないんで、嫌われる時に

はどうして嫌われるのかは一応いつも考えることは続けてきて、そりゃ、もっと

もだな自分もそっちの立場だったら嫌うかも、ってことについてはできるだけ直

してきたつもりだけど、全部が直ってるはずはないわけで。

相手のやなとこについても、こりゃかんべんしてくれ、ってことについては直接

当人に感想を言うことにしてたら、私の友人たちは不愉快な部分はほぼ見えなく

なり、それでもそれぞれの勝手で「非常識な表現」を楽しむことができるように

なったし、多分、相手も自分にそう感じてるはずなのだ。


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