11/30のしゅちょう
            文は田島薫

(知識中毒、について)


中毒には色々な種類があるもんで、アルコールやニコチンや薬物、ってよう

なそれは、だれでも、これはならないように気をつけた方がいいかも、って

感じるだろうけど、たとえば、活字中毒とか知識中毒とか、って傾向には、

危険性よりも敬意を感じるぐらい、いいもんだ、って感じそうなのは、特に

わが国では近年、勉強して知識を貯えていい大学にでも入っていい会社に就

職する、ってことが人生の理想である、ってような教育を国を上げて続けて

るせいの集団催眠的思い込みがあるのだ。

勉強して得る知識がいいものであるためには、それが個人の人生や世界を豊

かで幸せなものにする、ってことによってだけなはずなのに、その本来の使

命といったものからはずれて、その取得する量を競う、ってことに片寄りつ

つあるのが現状なのだ。

原発反対を言うと、原発の原理の核分裂や核融合の詳細について君は知って

るのか?って問い正して黙らせ、優越感を楽しんで終わり、ってパターン。

核分裂の原理の詳細などは不要なのであって、事故の可能性と被害の甚大さ、

処理の計画が立たないまま増え続ける危険な核廃棄物、ってだけ知ってれば

十分なのだし、おまけにそれを推進しようとしてる連中が隠している、自然

エネルギー開発よりも結果的にコストがかかる、ってことで全滅なのだ。

ネットの政治的発言も、反対派同士で馬鹿のしあいで、本論のテーマとずれ

る情報を出しては君はこれを知ってるのか、知らないならもっと勉強してか

ら発言するのがよろしい、って言うと、なにを、じゃ、おまえはこれを知っ

てるのか、ってような不毛論争を、中学生高校生たちぐらいから言いあって

て、とにかく情報量で言い負かせればいい、ってパターン。

活字中毒と公言する文学者などは、それが本質的に自分の楽しみである以上

のものではない、ってことを自覚してるのでそのことに謙虚なのだ。

本当にわかってる知識人というものは、情報そのものの限界をよく知ってて、

情報は得れば得るほど、矛盾したそれも知ることになり、ますます物事の判

断ができにくくなって行くことも知ってるので、常に一番大切な事はなにか、

ってことを忘れないものなのだ。

たとえば、戦争を避けることが第一、そのためにあらゆる手段を考えぬく、

ってようなことが、政治などで一番高度で難しい能力がいるものなのに、知

識以上のものがない東大卒の若い議員が、北方領土返還の話の流れで、戦争

したらいい、って言ってしまうようなことが起きるのだ。


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