6/17のしゅちょう
            文は田島薫

(人生のムダ、について)


世の中どんどん便利な電気製品ができたり、すごく早い乗り物ができたり、人間の

代わりに働いてくれるAIなんかもどんどん進歩して、われわれ自身の身体をほとん

ど使わなくても生活ができる時代になって来てるようなんだけど、それに甘んじて

るだけで人が幸せになれるのかどうかは別問題なのだ。

昔は日常生活から仕事まで自分の身体を十全に使わなければ生きることができなか

ったわけで、原始時代などは食料を調達するだけで生活の時間のほとんどを使って

たのが、便利な家電や自動車などがそれらの効率化を進めて、他の文化的興味を満

たしたり余暇を楽しむ時間も手に入るようになって来たのはとりあえず幸せなこと

だと言えるんだろうけど、その効率化の進歩は止まることがなく、そこまで必要な

のか?ってことや、それだと人間の本来の喜びを逆にだめにして行ってるんじゃな

いのか、って言わば主客転倒の状況が始まってるんでは。

単純な例で言えば、新幹線や飛行機の進歩で、従来大きな楽しみの要素であったは

ずの移動中ののんびりした自然鑑賞やらくつろぎの時間が短縮したり消えたり、ボ

タンひとつで簡単に調理してくれたり、ただ温めるだけで食える料理がすぐ買えた

りすれば自分で工夫して作る料理の楽しみがなくなったり。もっとも料理なんか元

々好きじゃないし、もっとしたいことがあるんだ、って人にはいいのかもしれなし、

美味しいものを食う楽しみだって、食うのが面倒でなんか錠剤のようなもんで栄養

が取れたらそれで済まして、別な興味あることをしたいって人もいるようだし。

ま、自分が好きでしょうがないことがあってそれに集中するために他の作業は極力

省きたい、って気持はわからなくはないんだけど、その好きなこと、ってものが、

例えば、ギャンブルやらパソコンゲームやら株のトレードのようなことだったとし

たら、それだけで一生を終えた時、その人は空しい気持にならないだろうか。

人は目前のことに心を囚われてしまうことがだれにでもありうるわけだから、いつ

もどっか自分の中に自分を見る第三者的視点を持った方がいいのだ。

1人のだれかを恋の相手と思い込み相手の気持も想像もできずに突っ走って、ずっ

とストーカー行為のエスカレートで双方を破滅させたり、自分の車のスピードがう

れしくてそれを抜くやつは許せなくて必死に走って事故起こしたり、目的地にすご

く早く着いたんだけど、そこでやりたいことがちっとも頭に浮かばなかったり、地

位や給料の上がるのがうれしくて夜中まで働き通したあげく、定年後離婚を求めら

れたり、力尽きてさっさと死んだり、ってことを想像したら、金がなくても、スー

パーカーなんか持ってなくても、人生、ゆっくり回り道して歩き景色見たり、悩ん

だり失敗したり休んだり色々考えたり、できた方がいいんじゃないか、って。

だれかが言ってた、効率よく行くことばかり求めるな、そもそも、生きてること自

体が元々ムダ、って言えばムダなことなんだから、って。


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