5/7のしゅちょう
            文は田島薫

(思いの共振、について)


人はそれぞれの生活環境の中でそれぞれの性格や嗜好などで気の合った友人なんか

と感性やら意思の疎通を実感できることは安定した精神を保持する力なはずだ。

これが、そういった生活環境や育ちの違う人とそれができるようになるには、けっ

こうステップがいるだろうし、いつまでたってもそれが難しい場合もありそうで。

世の中、すごく社交的ですぐに知り合ったばかりの人間と仲よくなれる者もいれば、

人見知りで、よく知り合えるまでは心を閉ざしてる者もいるし、そうとう長くつき

あって傍からは友人同士に見えても、心の内はいつまでも明かさない者もいる。

社交的な人間は、人間は多様に見えてもその日常感覚などにさほどの違いはない、

って信じてて、瞬時に相手の人間性の本質のようなものを見抜く能力を持ってるの

かもしれないし、相手の性格などの多少の不可解さなどは、逆におもしろがってし

まうぐらいの大らかな気質なのにくらべ、心を閉ざす側の気質は、自分の気分の自

由さが第一で、他人の感性からの主張などでそれをかき乱されたくない、って感じ

てるのか、他人がどう感じてようが、自分と違う感覚の者とはかかわりたくない、

って感じてるか、それには直接かかわらないで客観的に観察分析して、それについ

ての問題点を気の合った者にだけ伝える、ってような違いがありそう。

こう大きくふたつの分類みたいなことしたんだけど、これはどちらか一方にだれで

もが属すのだ、っていうことではなくて、だれでもその両方の傾向を合わせ持って

て、そのどちらかの傾向が強い、ってことなんだろう。

理想的には、私の友人が言ってたように、人とは広く深くつき合ってる、ってこと

が可能ならばより人生は豊かなものになるのかもしれないんだけど、不本意な人間

関係を長く続けたり、不本意な挫折をくりかえした者には、なかなか精神的余裕は

持てないことの方が多いはずだ。

で、やっと本題に入るんだけど、心のわだかまりのようなものを一気に解消する力

を持ってるのは、音楽かもしれない、って今さらながら先日感じたんでそれを。

私は幼い頃から音楽が大好きで、小学校の頃は三橋美智也を聴いてたし、徐々にア

メリカンポップスや映画音楽からフォークやロックやジャズにクラシックも聴くよ

うになったし、Jポップだってなんだって聴くわけで、一番聴くのはロックやジャ

ズなんだけど、で、先日の真夜中テレビで、シンガーソングライターの小田和正の

コンサート模様をやってて、私は彼の音源はひとつも持ってないし、どっちかと言

えば、さだまさしなどと並んで、嫌い、を公言してるアーチストの1人なんだけど、

その才能はわかるし、歌に込めた思いもわからないことはない、って言いながらけ

っきょく最後まで観てたわけだから、嫌い、のニュアンスは微妙なとこがある。

で、彼が、別れた恋人への思いやら、好きな君にいつでも会いに行く、ってような

ことを切々と歌い上げると、1万人ぐらいの中年男女が涙ぐんでいて、こりゃ自分

の人生のことだ、って彼らは美化された物語の中で共振してるようだった。

歌い手と聴き手、その双方真剣な心の吐露を観た私は、これを否定したり馬鹿にす

ることはだれにもできない、って感じた。

知らずに思ってたかもしれない私が気に入ってるアーチストの方が崇高、かどうか、

ってことはだれにもわからないことだし、第一そんなことにはなんの意味もないの

だ、今、心の底から思わず出た涙の一滴、に真実があるのだ多分。


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