4/30のしゅちょう
            文は田島薫

(宗教対立の不毛さ、について)


古今東西、宗教戦争のようなことが絶えたことがないようで、昨今でも他宗教や同

宗教の他派へのテロやら戦闘のようなことがくり返されてるんだけど、それにいつ

も踊らされてるのが無知な特に若者たちなのだ。

宗教というものの発祥の目的は古今東西、どんな宗教でも、厳しい生活環境の中で

苦しみ続けるだけのような救いのない人々に、なんとか心身の救いを与えたい、っ

て発想しただれかが生んだもののはずなのだ。

だから、あらゆる宗教の目的はひとつだ、とも言えるのであって、人々を幸福に導

く、ってことが全てなのだから、極端な話、自分のとこの宗教はそれを実現できる

けど、他の宗教は間違っててそれは自分のとこの宗教の人々に害を及ぼすものだか

らそれを壊滅させるべきだ、って信じてテロ攻撃などをする、ってことは世界の矛

盾そのものだろう。だって、それぞれの宗教はそれぞれの成り立ちがあり、それぞ

れの宗教を信じる人々がみんなテロ攻撃のようなことをよしと考えたら、戦争は永

遠に続くことになり、宗教の目的だった人々の幸福とは逆の結果になるわけで。

もっとも、国の大多数が参加するような壮絶な宗教戦争は昔ほどは起こりにくくな

ってるのは、多様な国の人々の宗教や考え方や感じ方や家族に対する思い、などの

情報が世界に広く行き渡り、他の国や宗教でも、根っこの部分では自分たちとさほ

ど変わらない感じ方をしてるのかも、ってことがわかるようになってきたせいなん

だろうけど、それでも、頑に自分の国や宗教が一番正しい、って信じてる人々はま

だいるようだ。

そういった頑固者はたいてい老人たちで、柔軟に世界を観ることができる若者たち

のほとんどは新しい戦争のない世界を切り開く力を持ってるはずなんだけど、そう

いった開かれた眼を持つチャンスがなかった若者たちもいるわけで、例えば、貧し

さのあまり、または金はあってもなんらかの重労働だけの生活環境のため考える余

裕もなく自分たちの不幸の原因を短絡的に想定された敵のせいだと思い込まされた

り、または自ら思い込んだりもありうるのは世界認識の未熟さのためなのだ。

世界の中心が自分や自分の宗教や自分の国だ、って思うことはいけないことじゃな

いかもしれないんだけど、それがいけないことじゃないのなら、世界じゅうのすべ

て人々がそう思っていいわけで、じゃ、そう思った後、どう考えるか、が大事にな

るわけで、そうだ、世界のすべて人々が幸福になるように自分中心にできることを

はじめよう、ってそりゃだれでも思ってることだろ、ってような話でした。


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