2/18のしゅちょう
            文は田島薫

(わからないことの楽しさ、について


現代人は子供から大人まで、大勢がスマフォやパソコンで四六時中なんらかの情報

を受け取ることに時間を費やしてるんだけど、その1人である私も時々、こんなこ

と調べてどうだって言うんだ、って思うことが多々ある。

これは、特にわが国の国民などが子供の頃からされてる教育の影響なんじゃないか

と思うんだけど、物事を知る、ってことは確かに世界の有り様やその中での自分の

生き方の指針を得る、といったことには大事なことだろう。

ところが、現代の受験教育の状況は、大学入試試験の問題などを見ても、例えば、

歴史であれば、受験生の合否判断を記憶量の差別化で見れば楽だ、って大学や文科

省の判断なんだろう、古代の人々の些末な事件などをどうしたこうした、って問題

にされるもんで、受験生はどんなことでも覚えなければならないわけで、学問が、

まず世界の平和を築いたり継続することに第一義があると考えるなら、現代社会か

ら逆算して、よりそれに関連性があるものから段取りして考えさせる教育なり問題

なりを提示するのがいいはずなのに。

で、なんでもかんでも、ただ知識量が多いことが人の価値だ、と言わんばかりに、

テレビでは雑多なクイズ番組が大流行で、国民総出で知識採集に励んでいる。

ま、それが頭の体操だ、ってことで割り切ってればそれはそれで悪いことでもなさ

そうなんだけど、生身の人付き合いや自然と触れ合ったりするようなことをなしに

してそっちばかりだと、どうも、人々の大事な感性や同じ音で意味が違う想像力や

創造力が萎んで行くんじゃないか、って心配になる。

子供の時の好奇心は、生の世界との直接の体験が基本だったはずなのに、それがし

だいにゲームやコミックのようなバーチャルなものに変わって来てるようで。

そうは言っても情報を受け続け、いろんな知識を身につけてても、好奇心を持ち続

けて学び続けてる人々も多くいるわけだけど、そいう人は常にわからない自分を意

識してるはずで、そこが肝心なとこなのだ。

好奇心を基礎にしてないで、ただ自分の知識量をふやすことだけが喜びだとだめな

のであって、それなら、なにも知らないで、生の現実にびっくりしてる方が私はよ

っぽど楽しい気がする。

昔から、前もって調べ過ぎたりしないで、ぼーっと出かけてよく道に迷ったりする

ことが今でもけっこう私は好きだ。


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