10/28のしゅちょう
            文は田島薫

(空虚と充実、について)


私はこの何年もの間、夜一度寝てから4時間後ぐらいに起きて、トランジスタラジ

オの絞った音を聞きながら顔や頭を洗ったり、軽いストレッチしたり、トイレで用

を足した後も便座に腰掛けて新聞をずっと読んだりしてからまた寝直す、って生活

を続けてるんだけど、同じようなことやってるのに、すごく楽しい気分になる時と、

なんだか空しくて寂しい気分になる時がある。

そういう違いが出るのはどういう訳なんだろう、って時々考えてたんだけど、簡単

にまとめれば、ラジオのおしゃべりやかかる音楽が自分の興味のないものだったり、

頭がからっぽのまま、自分が今体を動かしてることの意味が健康維持だとして、何

のためにそれが必要なのか、って疑問が起きたりした時は空しい気分だし、ラジオ

の音が自分の興味をひくおしゃべりや音楽だったり、体を動かしながら、自分の趣

味のような絵や音楽や考えに、なにか新しい表現ができそうな気がした時なんかは、

なんだか世界は素晴しい明日が楽しみだ、ってぐらいの気分になるのだ。

こう言っちゃうのを聞いて、そんな単純なもんじゃないだろう、って感じる人も多

くいるだろうことは当然で、だれもが私と同じような生活してるわけじゃないし、

それぞれの事情があるだろうから、ここは私個人の場合として勝手に思ったことを

言わせていただくことで、少しは共感するところがあるかも、ってことで。

けっきょく、考えるに、われわれの意識、ってもの(特に私のそれ)は、そんなに

系統だって現れるもんではなくて、今やさっき聞いた人の言葉や、何か現前の気に

なる事柄にけっこう支配されてしまうようだから、そういったものが悲観的で考え

ても解決のできないものだった場合はさっさとその情感を見切ってしまい、その悲

観を楽しむような余裕や気分ではないのなら、気持を切り替えて少しでも明日から

の生活を楽しく開けるような事を考えたりするのがいいようだ。

昨日の夜中も、なんとも空しいおもしろくない音楽かけながら、首のマッサージの

ようなことやってた時、なんとも空しい寂しい気分になったんだけど、なにか意味

のありそうなことを考えよう、って思い、そうだ、明日のホームページの原稿に何

を書くか考えてみよう、って考えだしたら、もう一気に充実した時間に変わった。

何か悲観的な話でも聞いたばかりで空っぽの頭のまま、ぼーっとしてると空しい気

分になるのは簡単なんだけど、そっから脱するのには、「意味のある」または「意

味のありそうな」ことを考えたり感じたりするのがいいようだ。

例えば、歌や俳句を読む人は自然の有り様などを感じてそれを言葉に整理する、っ

て、きっと大げさに言えば、もう宇宙とその一部である自分がつながる瞬間を感じ

る、って気分なんだろう。


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