11/26のしゅちょう 文は田島薫
(居心地のいい場所、について)
人はだれでも自分が一番気持よく過ごせる場所が好きだろうし、できればできるだけ
その場所に長く居たい、って感じるもんだろうけど、どこがそれだ、って言ったら、
それは人それぞれで、ある人はゆったり豪華なホテルの部屋かもしれないし、ある人
は自然に囲まれた質素な山小屋かもしれないし、リゾ−ト地の海辺のレストランかも
しれないし、ハイウエーを移動するスポーツカーの運転席かもしれないし、本を読ん
でる静かな図書館の固い木の机と椅子であるかもしれない。
私なんかは、大雑把に豪華か質素か、って言ったら質素の方が落ちつくんだけど、そ
れでも、部屋の作りやテーブルや椅子はボロでも本物の無垢木や自然素材のがいいし、
安普請のベニヤ板や段ボールに囲まれてるのは、少し気分も落ちる気がするから、贅
沢なもんがきらい、ってわけではなさそうだ。ただ、たとえば一目で手間と金をかけ
た高級な建物や部屋や家具だ、ってものは、その作り手や持ち主などの重い情念のよ
うなものを感じてくつろぐことができにくいのだ。たとえば酒を飲む店なら、そっち
の豪華なのより、安普請でも質素な方がくつろげるのだ。もちろん、支払いの安心、
ってところも大きいけど、たとえ、他人の奢りだったとしても、安普請の方が。
ほんとは無垢木のテーブルは欲しいとこだけど、酔ってしまえばラミネートのテーブ
ルも気にならなくなるんで、酒さえ楽しく飲めればどこでも居心地のいい場所、って
ことになりそうなんだけど、それでも物理的により気分のいい場所を考えてみると、
多分、風水にもかかわってくるんじゃないかと思うんだけど、光や風、空気の流れや
光の向きで、人間の気持のいい配置や構造ってものがあるはずで、それは基本的に、
金をかけるかかけないかとは無関係なことなのだ。
古くてゆがんでたりキズがあったりしてても、きちんと手入れされて磨かれた自然素
材でできた部屋や家具がある小さな小屋で大きく開いた窓や縁側の外におおきな木が
葉を繁らせてる、光もきちんと入って来る、ってような環境は私の居心地のいい場所
で、とりあえずわが家の居間はほぼそういうのに近いから、建てて30年以上経ってて
軒の板が剥がれてみすぼらしく見えてもさほど気にならないのだ。
きのう観た映画の熊谷守一の30坪ぐらいの雑草と樹木だらけの庭も彼の一番居心地の
いい場所らしくて、数十年間、一度も外へ出なくても幸せだったようだ。
だから、私も自分ちの居間にいると別にどっかへ出かけたい、って気にもならないわ
けで、もっとも、さほどいい作りでもない茨城の家に住んでた私の父親もほとんど外
へ出ないで、なんか読んだり書いたりしてるだけで幸せそうだったから、その血を受
けついでる面もあるせいなのかもしれないんだけど。