12/18のしゅちょう
            文は田島薫

隠された善意、について


私は人づき合いはあまりいい方じゃなくて、近所の人ともそれほど親密に話し込むことは

少ないんだけど、遭ったら一応いつもこちらからあいさつをすることにしている。ところ

が、そんな時に、元気に愛想よくあいさつを返してくれる人もいれば、無愛想に小さくう

なづくだけ、ってような人もいるのだ。

そういう人については、あ〜、この人は私のことをさほどよくは思ってないのだ、きっと、

って若い時などいつも感じたりしちゃってたんだけど、年を重ねると、人にはそれぞれの

事情、ってもんがあるんだ、ってことがわかってくるのだ。

考えてみれば、私の方だって、昔から何度も話をしたことがある人には親しさを感じて、

無意識に笑顔になれるのに、そうでない人には、大声であいさつしてても、自分の表情は

固かったりするわけだから、それを見た相手だって同じように、笑顔になれるわけはない

んで、コイツあいさつしてるけど、単に儀礼的なもんなんだろうな、って感じたなら、笑

顔はできないし、元気にあいさつを返す気分にはなれないかもしれない。

それが根っから社交的で親愛的性格の持ち主だとだれに対しても自然なかけ声と笑顔を向

けることができるんで、どの相手もしらずに笑顔になっちゃうかもしれない。

だから、相手から笑顔をもらいたければ、自分が人に笑顔を向けられる練習をすればいい

のかもしれないし、それが不自然にならないように心からのそれを、って風に。

で、ここで、もうちょっと考えてみると、じゃ、そうやっていつも他人と笑顔で向き合う、

ってことだけが一番大事なことかどうか、って。

よく日本人は海外へ行くと、現地の人々が利用するような店で店員が無愛想に感じること

が多い、って話を聞くし、私もそう感じたんだけど、日本と違い世界的にはそっちの方が

標準で、店での売り手と買い手の立場は平等、ってことのようだ。

考えてみれば、店で一番大事なのは、客の求めを充分聞き理解し最も適確な商品を提供す

ることなわけで、とりあえずなんでも売りつければいい、ってただニコニコと、いい加減

に商品を勧める店員がいいわけはないのだ。

日本社会で言えば、どんなに無愛想に見える人もたいていは、お世辞ぎらいの正直もので、

心の奥に善意を秘めてるものだ、って信じてみるのもいいことかもしれない。

先日近所の普段恐ろしく無愛想な男がわが家の玄関に大袋いっぱいの柿を持って来て、取

れ過ぎちゃったんで好きなだけどうぞ、って言い、いい笑顔をした。




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