12/11のしゅちょう
            文は田島薫

金銭の魔力、について


都内の有名な神社の宮司一家の姉弟争いで刃傷沙汰があり、姉は弟に殺され、弟夫婦も自

決、っていった壮絶な事件があった。

なんで血を分けた姉弟でそこまでの事件が起きたんだろう、って不思議に思うんだけど、

一般的にも、「血縁同士の骨肉の争い」、ってような例えもあるように、けっこうそうい

ったこともあり、思想的な反目によって、ってようなことも中にはあるにしても、大体は

配分に不満を持った者同士の遺産相続争い、ってパターンが多そうだ。

で、今回のそれがそのパターンだ、って言い切ることはできないのかもしれないんだけど、

どうも一家は神社の周囲の不動産を広く所有した資産家で、宮司の地位にそれの財産管理

権もあったらしく、その地位を姉に追われた弟は長年復権を求めて叶わない状況に姉への

恨みをつのらせた、ってことのようだ。

これが、神社が貧乏で宮司の仕事はボランティア、アルバイトをやりながら空いた時間を

ねん出しつつの名誉職、ってことだったとしたら、弟もこれほどその地位に固執すること

はなかったんじゃないか、って風に考えると、一家のなまじの金銭の豊かさが災いをもた

らした、ってことも言えそうなのだ。

とは言え、金銭に固執するんじゃない、って持ってない私などは気楽に言うことはできる

んだけど、実際にそういった立場になった場合、正当な配分は欲しいもんだ、って頑張る

かもしれないわけで、そういった立場にならなければわからないこともあるんだろう。

でも、それにしても、金銭は必要なだけあれば人生楽しくやれるはずなんで、そういった

状況になったら、過分な金銭はだれかにくれてやる、ってぐらいの人格を持ちたいもんだ。

しかし一方、その必要なだけの金銭さえ充分じゃなくそれを得るために日夜身体を酷使し

てる、って人々もいっぱいいるわけだから、もう、その立場で考えれば、いかに金銭のそ

の必要な量を減らせるかが人生の大事な問題になるのかもしれない。

一文なしの種田山頭火は仏教徒になり、粗衣をまとい身ひとつで人々から喜捨を受け(物

乞いし)ながら旅を続け、後生の人々の心に響く歌を毎日書いた。

この凡人にはできないような謙虚さと強さは、安楽な予定された環境の中、物欲にまみれ

自己の名誉ばかり気にしてるのとくらべ、極貧万歳、ってぐらいの存在感なのだが。




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