9/5のしゅちょう
            文は田島薫

目に見えない大切なもの、について


人間の価値に高低はあるのか?って言ってみると、そりゃ、どう考えたって人々の命や

暮らしを守ってくれる能力のある人と、だれの役にも立ってないような人じゃ、雲泥の

差、ってもんがあるんじゃないか、ってたいていの人は思うかもしれない。

じゃ、仮に人々の役に立ちそうな人間だけ残して、そうじゃない人間たちはいなくなれ

ばいいのか、って考えてみると、例えばなんかの会社だったら、そこの仕事において、

能率よく働ける人と、その能率が低い人がいたとして、低い方の人を減らして行ったと

してもいいのかもしれない。だって、仕事には色々なもんがあって、それの能力につい

ては人それぞれ好き嫌いや向き不向き、ってもんがあるだろうから、ひとつの仕事で能

力が低くても別の仕事では能力を発揮するかもしれないのだから。

それでも、たいていの会社で共通して求められる、常識的立ち居振る舞いや基本的教養

や協調性といったもんが欠けてた場合はどうだろう。それでもなお、何か手先が繊細に

動く、ってことなら、職人的な仕事で受け入れられるかもしれない。

じゃ、それらのどれとしてできるもんがない人だったとしたら、全く役に立たない無価

値な人間だ、って思われるかもしれない。

それはどんな人間かと、私自身をたとえに思いきり美化して考えてみると、詩を書かな

い詩人、絵を描かない画家、演奏しない音楽家、ってようなもんではないか、と。

芸術家はそれがなにか表現したとしても、おしなべて、人々の命や日常の暮らしに直接

必要を感じさせるもんではないのに、その上、彼らが芸術表現もしてないならば、外観

からはただの無用の人にしか見えないだろう。

ところが、私が思うに、芸術家、ってものは、文や絵や音に表現しなくても、その感受

性に気づくことができた人にとっては、日常の立ち居振る舞いの中でその表現されない

表現の一端を感じられるはずなのだ。

経済効率ばかりに目を向けて、やれどっちの人の方が能力が上だ、自分だってがんばっ

て、負けない人になるんだ、とかなんとか競争ばっかりやってると、世界にあるのに目

に見えない大切なものを知らないまま一生を棒に振ることになるのだ。

私が考える芸術家、って、あらゆる意味で世の中の仕組みからはずれた全ての人々のこ

とで、先日、勘違いした人間によって殺された知的障害者たちも含まれるのだ。




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