知らぬが仏
ある駅でのこと。
ホームへ向かう階段を半分近く下りたとき、どっと人が上がってきたので下を見ると自分の
乗る方向の電車が入っていた。いそげば間に合う、と上がってくる人波をかきわけてホーム
にたどりつき、あと少しというところで電車を降りて階段にむかう60年配の体格の良い女
性にぶつかった。相手は正面をむいて歩いているがこちらは斜め、しかも不安定な形だった
のではねとばされて転びそうになった。あわてて体勢をととのえて電車のドアの前にたどり
ついたら目の前でしまってしまった。
つぎの電車に乗るべくホームのなかほどに向かって歩きながら、「こちらがわるかった。も
し相手を転ばせて怪我でもさせたらとりかえしがつかない。もう、むりができない歳なんだ
から…」と博愛の精神が頭をもたげてきたところに、後ろから「残念でしたね。じゃまをさ
れなければ乗れたのに」と見知らぬ女性が声をかけてきた。
それを聞いたとたん、いままでの博愛の精神も反省もふっとんでしまい「あのクソババアわ
ざとぶつかってじゃまをしやがったんだ。とっ捕まえてどなりつけてやろう」とブチギレた
が、いまさら追いかけても追いつかない。それよりもどこのだれだかわからないのだからど
うしようもない。それからはとてもここには書けない悪態罵詈雑言が頭の中をかけめぐった。
つぎの電車に乗ってすこし気持ちがおちついてきてから考えた。なぜあの女性はわざわざ声
かけてきたのだろう。こちらが突き飛ばされた状態がよほどひどかったのか、それともから
かわれた…といろいろ考えたがさっぱりわからない。ひとつはっきりしていることは、彼女
がなにも言わなければこちらは駆け込み乗車を反省し、不快な思いもしなくてすんだという
ことだ。 |