夢は叶ったらゆめじゃない
先日、大学時代のひとりのこった友人と会った。
3年ぶりである。
「とうとうおれたち3人になってしまったなあ」と言っていたうちの一人の葬儀いらい
である。
彼は、年三か月は家をあける、現役の風景写真家である。
ひとめぐり昔話のおわったとき「仕事は?」と聞いてきた。「去年の暮で全部やめた。
そちらはもうかっている」と聞くと、「赤字だよ」とぽつんと言った。彼は、写真がフ
ィルムからデジタルにかわったとき、苦労をしたがいまはそれをのりこえて第一級の写
真を写している。しかし、写真の価格が往時の四分の一以下に下がっているのでたいへ
んだろう。
しばらくすると急に元気になって、最新のカメラとレンズを使ってみたい、それに車も
替えたいといいだした。3年前は、いま乗っている車をのりつぶしたらおしまいにする
と言っていたのがうそのような話である。高額の出費なので「最後の道楽か」というと
「えへへ」とわらった。
考えてみれば孫も中学生という歳である。のこるは自分の生活だけだ。生活に余裕があ
れば最後の希望をかなえるときかもしれない。彼は、最高のカメラで写真を撮りたいの
だ。たとえそれがお金につながらなくとも…そう、夢なのだ。夢はかなうまえが夢だと
いわれるけどやはり夢は現実にしたい。
はなしを聞いているうちに自分のことを考えた。数年前に最後の道楽と称して高価なカ
メラを買ったがまだ夢はある。スピーカーがほしい。いまのものは30数年使っていて
とくに不満はないのだが音は古い。近代的な音を知らずにおわってしまうかとおもうと
心残りがある。しかし、さきを考えると「高額なむだづかい」と、気おくれがする。老
妻にぼやくと「出来るうちにやったら」というが根が貧乏性、「買いたい、むだ、買い
たい、むだ、の」逡巡が、いまだに夢をゆめのままにしてくれている。 |