4/26のしゅちょう             文は田島薫

(敬意と軽蔑と親愛と憎悪について)

家族や友人、その他の社会環境での人間関係で、相手に対して人は様々な感情を持つ

わけだけど、例えば親愛と憎悪と並べれば、双方にとっても親愛を感じる方が快いの

は言うまでもないとして、する側にとっての敬意と軽蔑を並べたら、一概に敬意の方

が快く、軽蔑は不快、って決めつけられるだろうか?

自分よりもあらゆる点で優れていて、一緒にいると自分の劣等感を意識され過ぎてし

まう、って場合と、気楽な友人関係でありがちな(?)ほんとに下らないやつだな〜、

ってお互いに軽蔑を感じ合うんだけど、どこか憎めないし、自分の方がこいつのここ

の部分に関してはましじゃないか、って安心したりする、って場合とか。

でもこういった感情は例えば、軽蔑感だけ、って単純な要素で関係を作ってる場合は

本当の友情のようなものは成り立たないはずで、友だちなら、お互いに少し軽蔑し合

う部分があったとしても、こいつのこういうとこは自分より偉いな、って敬意を感じ

るものがあったり、ってお互いに感じ合ってるもんなんだろう。

そういった意味では、敬意と軽蔑、親愛ばかりでなく憎悪さえも、包括して、大きく

見れば円満な人間関係ってものは成り立つのだ。

要はそのバランスの問題で、軽蔑と憎悪だけで成り立つ人間関係があるとしたら、そ

れは双方にとって不快な関係だろう。

それが不快だからそういった人間が存在する意味はないかどうか、って言えば、その

不快さの本質を考える材料を提供してもらえる、って意味では大いに存在理由はある

と言えるかもしれないんだけど、できれば、そういった関係は持ちたくない、って思

うのが、一般的感情だろう。

で、その、軽蔑と憎悪を感じさせる人間ってものはどういった存在か、考えると、ま

ず、そんな人間が本当にいるかどうかわからないんだけど、人に何かを与える気持ち

を全く持ち合わせないのに、自分は優れた人間だと思い込んでいて、他のどんな人間

にも敬意を感じることができず、自分の利益のためには他人をどんなに苦しめても全

く気にとめない、ってような人間。

逆に、敬意と親愛を感じさせる人間なら、それと真逆な条件を考えればいい。

で、けっきょく、人間はそのどちらかにきっちり属すってわけにはいかず、それらの

要素の分量をより理想に近づけようとがんばるのがいいんだろう。




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