7/24のしゅちょう
            文は田島薫

戦争を止める方法、について 63


ゼレンスキー大統領が使用を始めたクラスター爆弾について、プ−チン

大統領は自分らも使うことが当然のことになる、って批判してるし、ゼ

レンスキー大統領の方は、一般市民に被害が及ばないように、後始末の

ために使用場所も記録してる、って言ってるんだけど、クラスター爆弾

は複数の子爆弾が周囲に広がるもんなのだから、それの被害を小さくす

ると主張しても限界があるのだし、ロシア側がばらまいてる地雷と同じ

ように、進行形で双方の兵士の命を落とす危険の他、後に一般人への危

険を残す兵器なわけだから、最初から使用すべきではないのだ。

もっとも、戦争は危害を与えあう行為なのだから、非人道的にならない

ように気をつけあう、と言ったって戦争を継続してるかぎり、五十歩百

歩で、最初から戦争を始めるべきではないのだ。

私は隔週でSNSにもウクライナ戦争について短いコメントを載せてるん

だけど、先日は、双方に見通しもなく決着がつかないまま続けてる戦争

に、プ−チン大統領とゼレンスキー大統領の2人が双方の国民を代表し

て、命がけの決闘をして決着をつけるのもいいんじゃないか、ってだれ

でも考えるんだけど、そんな場所にわざわざ真面目に書く者はいないよ

うなことを書いたら、自分でもリアルなイメージを感じて、実際にそれ

を、2人の大統領が決断しなければならない情況があったとして、自分

がその1人だったとして想像してみると、命をかけてそれをやる気には

ならないだろうし、なんとかそれを避ける方法を考えるだろうと思うわ

けで、当の2人が、いや、自分は国を守るために必要ならそれを受け入

れて自分の命を捧げよう、って言うのかもしれないんだけど、やっぱり、

人の命は1つだけなんだし、権力者は自分の権力の増大と継続を考える

もののようだから、それをすることはまず考えにくいことなのだ。

では、命が1つでもそれをかけて決闘をしよう、って一般市民がいるか、

って考えたら、それが明らかに自分の国の人々を救うことになる、って

思えたら、できる者もいるかもしれないけど、たいていはそれでも自分

が死ぬことは望まないだろうから、それは大統領が自分は死にたくない、

って部分では共通してるのだ。

ところが、大統領なら自分の命を捧げなくても、国民にその尊さを主張

してその気にさせることはできそうで、国民の方も、自分がまさにその

捧げる当事者になることはまずないだろう、って踏んで、戦わなきゃな

らないことになったら戦うつもりだ、って言い、戦うけど、勝利を信じ

て戦うんであって、死ぬことは考えたくない、って思うかも知れないん

だけど、戦争の渦中にいれば死ぬこともありうるわけで。

宝くじに当たったり、自動車事故に遭うような確率で自分は大丈夫だろ

うと考えて正当性があるならと、戦争も受けいれるんだけど、だれかが

必ず死んで、それが自分だった時にも戦争を肯定できるのかどうか。




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