●連載
虚言・実言         文は一葉もどき


横浜が縄張りの元タウン誌ライター。
貧しさにもめげず言の葉を探求し、人呼んで“濱の一葉”。
ウソ半分、ホント半分の身辺雑記を綴ります。
今回は、もどきさんが、ひっかかる表現について。



翻訳ものの文体


友人との古本交換で得た何冊かの本の中から、私は”アメリカで一番売れた本”

という惹句にひかれ、まずアメリカの推理小説を読んでみた。

微に入り細に入り情景描写が細やかで新鮮に思ったが、そのうちくどいと思うよ

うになった。

例えば、冒頭の情景描写から『湿地は沼地とは違う。湿地には光が溢れ、水が草

を育み、水蒸気が空に立ち上っていく。緩やかに流れる川は曲がりくねって進み、

その水面に陽光の輝きを乗せて海へと至る』という具合である。

たしかにこのように説明されたら具体的にイメージが頭に描かれ、誤解のしよう

がない。

ただ、日本人の感覚なら、(私なら、と置き換えてもいいのだが)ぎゅっと濃縮

するか、具体的な象徴的な一部だけを切り取るか、空気感だけで情景を表現する

かもしれない。それはその情景を読者個人の想像する愉しみとして残すような気

がするのだ。

さらにいえば、同じ日本人同士なら一つの表現から、さらなる物語の展開や暗示

や人物の心理までを汲み取ることも可能であろう。

ある友人はその違いを、洋書は、読者が多民族なのでそれを誤解のないように読

ませようと思えば必然的に説明的になり、それに引き換え、日本は単一民族だか

ら説明がなされなくとも、あ・うんの呼吸で理解できるから省略が可能だと解き

明かす。

その意見に賛成だが、そんな事情に加えて、洋書には原文を読めない私たちのた

めに当然間に翻訳者の存在がある。

翻訳者の個性も加わるのが、翻訳物の宿命なのだ。

私はいままで翻訳小説はちょっと読みにくいという印象があったことは否めない。

だが、視野を広げる意味では避けて通れない新しい分野ではある。


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