●連載
虚言・実言         文は一葉もどき


横浜が縄張りの元タウン誌ライター。
貧しさにもめげず言の葉を探求し、人呼んで“濱の一葉”。
ウソ半分、ホント半分の身辺雑記を綴ります。
もどきさん、月の連想の果ては寂しさだったようです。



十五夜


太極拳の練習が終わり、教室を片づけていると誰かが、「今日は十五夜よ」と言った。

そう、その日は旧暦の八月十五夜の日だった。

その言葉を受けて中国人の先生が、「中国では中秋節と言って、月餅を食べるのよ」と

言う。

するとみんなが、わー、食べたーい、とか、帰ったらお団子作ろかな、とか、この頃道

端にススキって見かけないわね、とか、口々にお月見を話題にしたのだった。

その日の夜、私は夕食を済ませ、そのことを思い出して外に出てみた。

東の空の高い位置に、まん丸い月が眩しいほどに煌々と輝いている。思ったよりも小さ

かったが、真っ暗な夜空に完全な形で浮かんでいるのは、かえって神々しく感じるのだ

った。

その月に見とれていると、ふと思い出したことがある。

だいぶ昔、小学校のクラス会があり、二次会のカラオケで私が歌う羽目になった。その

とき、私はなぜか懐メロで、菅原都々子という歌手の「月がとっても青いから」を歌っ

たのだ。

本当はこの菅原都々子という歌手の鼻にかかった歌い方が大嫌いなのに。

懐メロなんてあまり興味がなかったのに。

なぜ歌ったのか未だにわからない。

「月がとっても青いから、遠回りして帰ろう」という、ロマンチックな歌詞が気に入っ

て頭に残り、覚えていたのだろうか。

だがその頃、私は仕事と家庭でかなり忙しい身で、月を愛でるなんて余裕などなかった。

夜遅くなって帰るとき、早く帰らねばとあせりながら、ひたすら前を向いて家路を急い

だ。月が歩いている道を煌々と照らしてくれるのを、“ああ、今夜は月夜なんだ”と思

うだけで、見上げることもなかった。

そして今、時間はたっぷりあるのに、月を見ながら一緒に遠回りをする相手がいないの

を寂しく思うのだ。


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