百日紅に思う
今、近所の家の百日紅が盛大に花をつけている。
枝の一部が道路にかかり、濃いピンクの縮れた小さな花びらは、色褪せることなく鮮や
かなまま散って一角を彩る。
炎天下のもと、散っても散っても、名前の通り百日も咲き続けるのだ。
灼熱の太陽の光を浴びながらその場から動けぬことを宿命として受け入れ、ただひたす
らおのれの営みを果たし、悠々と咲き通して見せる。
一途で一徹な姿に心打たれる。
頑張っているなあ、強いなあ、それに引き換えこの私は…なんて、この酷暑に自堕落に
過ごす自分を恥じ入ってしまう。
そういえば、テレビでは次々とセンセーショナルな事件を報じている。
ボクシング連盟の山根会長の問題、警察署で弁護士と面談後脱走した男、東京医大の入
試問題、周防大島での2歳児行方不明事件等々。
人間社会は次から次へと事件が起きて、私たちは新聞やテレビでさまざまな人のさまざ
まな幸不幸を知るのだけれど、本人にとっては生きるか死ぬかの重大事も、大半の人々
にとっては一つの風景にすぎない。
当事者の気持ちを推量することはできるけど、生の感情に向き合うことはなく、やがて
忘れ去られていく。
報道で知る事件なんてそんなものである。
ところが、人は生きていればいろんなことが起きるのだ。
いつ自分の身に降りかかるかしれない。
そのときは嘆いたり、後悔したり、喜んだりと精一杯の感情が動いて真剣に向き合った
つもりなのだが、やがて時は記憶を風化させ、一風景とさせる。
ふと気がつくとあのとき何もできなかった、という後悔だけが残りはしまいか。
夏には必ず花を咲かせる百日紅の存在感とは裏腹に、わが身の、そして人間の無力感と
無常感に呆然としてしまう。 |