ある日、聖書
有名な聖書の言葉に
「何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと
自分の体のことで思いわずらうな。(マタイ)」
というのがある。
そんな言葉で迷いが吹っ切れるときもあれば、また、
「明日のことをわずらうな。明日のことは明日自身がわずらうであろう。一日の苦労は
その日一日だけで十分である。(マタイ)」
で慰められることもある。
もちろん、聖書の言葉の中心には神様の存在があるのだけれど、決してクリスチャンで
はない私でも、すべてを大いなるものに委ねる安らぎは捨てがたい。
おもえば、人は日々なんと多くのことを思いわずらっていることだろう。
大きなことから些末なことまで、目の前には“どうしよう”といったことが常にぶらさ
がっている。
それらのことを無意識に或いは意識して良かれと思った道を取捨選択しながら前に進ん
でいる。
それがそのときは最善の道だと信じていても後で後悔することもあるのだが、なんだか
んだといいながら、その積み重ねがそのひとの人生となっていくのだろう。
そして、最近気がついた。
毎日なんとか物事を処理し或いはやり過ごして、つつがなく暮らしていると思っていた
ことや、この状態がずっと続くと思っていたことが、それは錯覚なのだと。
事態は少しずつ目に見えない速度で変わっているのだ。
そしてある日、当然と思ったことが当然でなくなることがある。
この無常を、失うことの大きさを、どのように納得したらいいのだろう。
「空の空、空の空、いっさい空である(伝道の書)」
という言葉も聖書にはあるけれど・・・ |