●連載
虚言・実言         文は一葉もどき


横浜が縄張りの元タウン誌ライター。
貧しさにもめげず言の葉を探求し、人呼んで“濱の一葉”。
ウソ半分、ホント半分の身辺雑記を綴ります。
もどきさん、自分が納得する文章を書くための方法を考察してます。


文章を書く


ココア通信に寄稿させていただくようになって約8年経つ。

毎週一回、平均800字前後の短文だ。負担にはならないが、それでも腕まくりで書く

ときも、こんなのでいいのかと不安のときも、惰性で書くときも、何を書こうかの思案

でまったく筆が進まぬときなど状況はいろいろである。

“継続は力なり”ではないが、お陰様で書くことが習慣化され、ネタ探しのため周囲を

見渡す癖がついたことは嬉しい。

もっと映像的に書こう、会話を生かそう、そしてリズムカルな文体に、と欲張ってああ

でもない、こうでもないと考えるのだけれど考えるほどうまくいくものではない。文章

はその人の本質的な個性がでるものなのだから。

同じ志をもち、やはり文章で悩む人がいて共に考えた。

そして、ハタと気が付いた。

逆に私が面白いといって読む本とはどんなだろう、と。

恋愛小説であれ、歴史小説であれ、空想小説であれ、私はこってりと心理描写があって、

人の心を深読みしているものが好きなのだ。

へえ〜、人はこんな風に考えるんだ…と思いもつかない心理が見えたり、おぼろげだっ

た思いが言葉となって鮮明になる、こんな瞬間が感動するのである。

他人の心を覗き見る愉悦感といったらいいのだろうか。まったく下世話な興味以外の何

物でもないのだけれど。

例えば、ごく私的な文章の代表である日記は、自分自身のために書き、書く者と読む者

が同一人である。何でもありと思うのだが、備忘録のように自分の経験した一日の出来

事を羅列的に書いたとしても、やがて物足りなくなって、それらの出来事や現象は自分

の内部とどう反応し把握されたのかを書かずにはいられなくなるだろう。自分の心理や

感情を盛り込むことによって初めて書いた出来事は現実感を帯びて目の前に立ちあがっ

てくるのではないだろうか。

そのうえ、日記から脱却して少しでも他人の読者を意識するとしたら?

内面の日記から脱却して客観性が加えられなければならない。内面を表現するのと同じ

くらいの精度で外部の事件や事象を観察して書いて、バランスを保たなければならない

し、さらに読み手に理解できるように書かれなければならない。そこに思考が生まれて

客観性と普遍性が生まれる。

あるとき、私はいつも一人称で自分の身辺ばかりを小説に書く人に聞いてみた。

「全部事実なの?」

「そうさ、事実の重みに勝るものはないさ」

「照れはないの? つらくない?」

「照れている場合じゃないよ。自分はモルモットさ。モルモットの自分を別の自分が冷

徹に見ているのさ。さらけ出す勇気がなかったら小説なんか書けない」

と彼はカラカラと笑って答えた。


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